Tuesday, January 2, 2018

報怨以德 (怨に報いるに徳をもってす)(道徳経 第63章)


報怨以德

日本語の読み方は<怨(おん)に報いるに徳をもってす>。怨は怨念(おんねん)の怨(おん)で<うらみ>のこと。第二次大戦後の日本に対する蒋介石の言葉だが老子からの引用だが、原文の内容とはずれがあるようだ。もっともこの蒋介石の言葉も誰が怨念を持っている(恨んでいる)か明確でない。中国人が日本人の対して恨んでいると思っていたが、日本人が中国人に対して恨んでいる、でもいいわけだ。

原文は道徳経 第63章にあり

為無為,事無事,味無味。大小多少,報怨以德。圖難於其易,為大於其細;天下難事,必作於易,天下大事,必作於細。是以聖人終不為大,故能成其大。夫輕諾必寡信,多易必多難。是以聖人猶難之,故終無難矣。

これまたいろいろな解釈があるが、<報怨以德>の前後は関係があるが<報怨以德>は前とも後ろともほとんど関係がなさそう。まず<報怨以德>の前は

為無為,事無事,味無味。大小多少,

だが<為無為,事無事,味無味。>はマル(。)がついているので、これでひとまとまりか。<大小多少>は<報怨以德>にかかるのか。もっとも原文はマルも点もなかったようだ。

<為無為,事無事,味無味>は逆接のようだが(逆接として解釈もできる)、 素直に訳すと

為(な)すことは為さないこと、事を起こすことは事を起こさないこと、味わうということは味がないこと。

だがこれでは何を言っているのかわからない。無為を説いた老子を考えると

為すは為さずに如かず、事を起こすは事を起こさず如かず、味わうは味なきものを味わうにしかず。

さらに言い換え、意訳すると

意図的に何かするよりも何もしないほうがいい(あれこれ考えていろいろするよりもできるだけ何もしない方がいい)。意図的に(わざわざ)事を起こすよりは事を起こすようなことはしない方がいい。味わおうといろいろ食べてみるよりは、淡泊な味で満足した方がいい。

大小多少,報怨以德。

の<大小多少>は<大につけ小につけ、多きにつけ少なきにつけ>、すなわち<大小多少にかかわらず、何事も>とすると<報怨以德>につながる。ここは、おそらく他人に対する対処方法(処世術)を述べているので他人が抱く怨念(うらみ)に対しては<徳を以て>対処するのにがいい、と解釈できる。西洋の聖書では<与えよ、さらば与えられん>というのがある。<圖難於其易>以下も大体対処方法(処世術)をのべているのでつじつまが合う。

圖難於其易,為大於其細;天下難事,必作於易,天下大事,必作於細。是以聖人終不為大,故能成其大。夫輕諾必寡信,多易必多難。是以聖人猶難之,故終無難矣。

圖は<図(はか)る>
是以は<これを以て>
聖人終不為大は<聖人(徳者)はつまるところ(終)大をなさず>
輕諾は<気軽に承諾する>

これで大体意味が通じる。


ところで上記の解説のなかで<意図的に何かするよりも何もしないほうがいい(あれこれ考えていろいろするよりもできるだけ何もしない方がいい)>とかいたが、このカッコのなかの<あれこれ考えていろいろするよりもできるだけ何もしない方がいい>は意味がある。<できるだけ何もしない方がいい>は無為(何もしない)ではない。老子の無為の<意図>はよくわからないが、レトリック上時々完全無為を説いているようにみえるが、完全無為は現実的に不可能だ。意図的に、またはいらぬ考えをもって、(必要以上に)あれこれ考えて何かをするのはよくない。かえってこのましからざる結果をまねく。そのようにせず、自然に振る舞うのがいい、とも説いている。こちらの方が現実的だ。

さらに理論的には有為(すること)と無為(しないこと)を分けること自体老子の<道>に反することになる。 <道>は元来朦朧(もうろう)とした妙や玄で区別がない、不可分の世界だ。



sptt

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